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S4上級真田家リプレイ その2「対真田包囲網」


前回までの状況

1588年10月の勢力(徳川?北条滅亡後)
真田28万(最前線は岡崎、春日山、上田、太田、二本松)、織田26万(近畿、北陸、東海や中国地方の一部)、島津18万(九州)毛利9万、長曽我部5万5千。東北勢力→たくさん。

今回滅亡予定の東北勢:伊達4万5千、最上3万6千、安東4万3千、津軽2万1千、蠣崎2万8千。(南部は安東と伊達に吸収済、相馬も伊達によって滅亡)


1589年1月、新発田城―――。
信幸「父上ーーーっ!大変でござりまするーー!!」
昌幸「なんじゃ、騒々しい。して此度はどうしたのじゃ?」
信幸「包囲網です!当家に対する包囲網が結成されました」
昌幸「ようやく来たか。待ちかねておったぞ!!これで敵も動くな???。信繁(幸村)!」
信繁「はっ、これに」
昌幸「そちは、岡崎へ行き織田の動きを封じるのじゃ」
信繁「されど、清洲、岐阜、富山に集められた織田の兵は10万を越えるとも聞いております。我が方には春日山に5万、上田に4万、岡崎にも6万しかおりませぬ。このままでは???」
昌幸「案ずることはない。富山の押さえには、北陸国人衆、岡崎の押さえにも東海国人衆がおる」
信幸「信繁、当家は更に戸隠忍者集とも先日武力協定を結んでおる。西の押さえは任せたぞ」
信繁「は、かしこまりまして候。身命を賭して任を全ういたしまする」


昌幸「信幸、我らはこれより東北を押さえるぞ。いかに信繁といえど、戦が長期に及べば苦戦しよう。神速の兵と詭計を巡らせ、事に当たるのじゃ」
信幸「は、それでは某は最上?酒田港を攻め、伊達を釣ります。父上はその間に同じく最上領?米沢を???」

という感じで今回の攻略は進みます。

1588年12月、徳川?北条滅亡によるもろもろの事後処理を行った後、委任軍団に輸送させておいた部隊を使って東北を席巻します。タイミング良く包囲網 が結成されたので、面倒な防衛は引き続き委任軍団に任せます。まずは最上を利用して伊達の兵糧攻め。始めは酒田港を攻め、伊達に長距離移動をさせます。伊 達が米沢城(支城)を通過する頃合を見計らって新発田城から米沢城に進軍。伊達は米沢へも援軍を派兵してくれます。伊達が酒田港に到着する直前に柏崎港へ 撤退。部隊の再編を行って再び酒田港へ進軍します。酒田港は伊達も撤退してしまい、山形城から米沢へ援軍を出したので、酒田には援軍もありません。信幸ら の3万3千の部隊ですぐに制圧完了。兵の回復を待ちつつ米沢の昌幸らに激励します。同じ頃、旧徳川?北条家臣は大田城から伊達領?平城(支城)へ出陣。伊 達はほぼ全ての兵を動かしている状態になり、春頃から兵糧切れになりました。平城、小高城を攻略し、5月下旬には岩出山へ向けて出陣。

昌幸は一度新発田へ撤退し、軍を再編した後、改めて出陣。
酒田城の信幸らもしばらくして最上?山形城へ出陣。城に取り付いてからは、米沢を攻めている昌幸らへの偽報もなくなり、米沢、山形を相次いで攻略。最上を 滅亡させました。すぐに義光らを譜代にし、すぐさま戦場へいってもらいます。安東南の国人とはあらかじめ協定を結んでいたので、山形へ兵を集め安東家の檜 山城へ出陣。

岩出山も落ち、塩釜もそのまま攻略。伊達を旧南部領?三戸+支城、港に押し込みました。高水寺城は安東領だったので、これも攻略、あとは、港に押し込めて 勧告。三戸?久慈港へ同時に進軍、伊達も降伏しました。ここでほぼ東北も片付いたので、後は委任軍団に任せて、昌幸は主だった伊達?最上家臣とともに西 へ。1592年12月の事でした。

次回はいよいよ、織田家との全面戦争です。西は東北平定の際も何度か織田に攻められていますが、信繁?旧武田?関東武将らの働きで、織田を撃退?壊滅させてくれています。

1593年3月の勢力(東北完全平定後)
真田45万(最前線は岡崎、春日山、上田?東は蝦夷まで平定)、織田31万(近畿、北陸、東海や中国地方の一部)、島津36万(九州?中国?四国地方)、長曽我部5万5千(四国の半分)

毛利家はあっさりと島津に吸収され、わずかに抵抗していた他の九州の大名は全て島津に喰われています。島津の台頭が目立ち始めており、すでに織田と領地争 いを始めています。残っていた東北勢も委任軍団のマメな輸送によって兵を蓄えられた結果、ほとんど抵抗なしに降伏しました。

技術は、足軽の十文字槍(胴丸、当世具足除く)まで、内政は二期作まで、築城は織田?島津との決戦を睨んで石垣だけ開

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